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2009年 07月 10日
先日、僕と助手のMは、あるタクシーに半日世話になった。
車はオンボロで、たまに時速30キロしか出なくなるので大変困ったが、 ドライバーが気のいいおっちゃんだったので我慢した。 おっちゃんは、悪いのは車ではなく、 エジプトから入ってくるガソリンの質だ、と言い張っていた。 一通りその日の予定を終えた後、さあ帰ろうという時に、 おっちゃん、 「ウチはここから近いから寄っていけ」 と。 断る理由はなく、お招きにあずかろうと、 彼の運転するままにお宅へと向かう。 ・・・が、車が進むにつれ、Mの表情がこわばってくる。 そして、僕の心臓の鼓動も徐々に速くなっていく・・・。 なぜか。 どうやら彼の家がイスラエルとの国境近くにあるようなのだ。 その時にいたのはベイトハヌーンという町なのだが、 そこは、助手のMがイスラエル兵に脚を撃たれ、 僕もその隣で、破片でケガをしたいわくつきの町だ。 当然のことなのだが、Mはあれ以来、 イスラエルからの攻撃に対してひどく神経質になっていた。 国境に近づくなんて持ってのほか、といつも言っている。 ただでさえその日も、撃たれた場所を通りかかり、 恐怖の記憶がまざまざと呼び起こされ、 我々はちょっとナーバスになっていた。 そして、そんなことは露知らぬおっちゃんに導かれ、 我々を乗せた車は、町を離れ、 イスラエルとの境界へと向かっていく・・。 おっちゃんはのんきに、 「俺の家からはイスラエルの町が見える」 なんて自慢していた。 それこそが我々には大問題なのです。 「国境そばの、戦争で破壊された家もよく見えるぞ」 なんてのたまっている。 今の落ち着いた情勢の中でも、 Mは国境に近づくことを本当に恐れていた。 しかしアラブの男なので、「怖い」とは言えない。 彼は隣でぶつぶつと「ラーイラーハイッラッラー・・・」 (アラーの他に神は無し・・・)なんて唱えていた。 彼の恐怖を察した心優しい僕は、 「やっぱりお宅にお邪魔するのは今度に」 と言うが、おっちゃんは聞く耳持たず、「オーケーオーケー」 なんて言いながら車はさらに国境へと近づいてゆく。 僕はMよりは平気なつもりでいたのだが、体は正直なもので、 心臓の鼓動はますます速くなっていった。 そうこうしているうちに、彼の家に着いてしまった。 屋上は見晴らしがいい、とおっちゃんに連れて行かれたが、 Mは 「これ以上はゴメンだ」 と、居間に留まっていた。 家はちょっとした高台にあって、屋上からは本当に、 イスラエル側がよく見えた。 距離にしたら、1キロちょっとだろうか。 家と国境の間には、先の攻撃で破壊された家々が点々と。 お隣さんも、瓦礫の山になっていた。 こうやってここに住み続けている人たちがいるのに、 国境にちょっと近づくだけでびびっている僕もMも、 まったく情けないのだが、撃たれた恐怖というのは、 やはり体験しないと分からないのかもしれない。 ああ、思い出したくもない・・・。 それを考えたら、実際にここで撃たれ、ミサイル撃ち込まれ、 砲撃されながら、今もこうして住み続けている人たちの精神状態は、 いったいどうなってるんだろう、とつくづく思う。 幸い破壊を免れたおっちゃんの家にも、銃痕がいくつもあった。 それでも、ヨルダンに長く暮らしていたおっちゃんは度々 「どんなところよりも、自分の故郷が一番だ」 と言い、 この国境そばのデンジャラスな土地を愛しているのだった。 そしてMは隣で、「こんなところにはとても住めん」 とぶつぶつ言うのだった。 #
by lusin
| 2009-07-10 00:35
| パレスチナ/イスラエル
2009年 07月 07日
かつて寝食を共にしたダチ、Hの家を訪ねた。
彼は不幸にも、今年に幼い娘を亡くしている。 死因ははっきりしないようだが、 「イスラエルの空爆によって、娘の体に異変が起き始めた」 と彼は言っている。 真相は闇の中だが、子を亡くした父がそう言うのなら、 私が言えることは何もない。 まったくどこの世界でも、子を亡くした親の悲しみは、 共通なのではないかと思う。 再会してしばらく経つと、懐かしいヨタ話に花が咲いた。 その中で、かつて彼と激論を交わしたコンドーム話になった。 当時、彼は婚約中であったが、コンドームはもちろん、 避妊のことすら何も知らなかった。 そして、「コンドームなんて絶対に使わない!」 と宣言していた。 4年前のことだ。まったく懐かしい。 彼は今や立派な父親となり、一家を支えている。 彼に聞いてみた。 「やっぱり、コンドームは使って・・・ないよね」 「当たり前だ」 まだまだ、これから量産体勢なのだから当然だ。 彼の夜のジハードに、コンドームは不要だ。 しかし以前と違い、Hはコンドームの存在意義については、 しっかりと受け入れていた。すばらしい進歩だ。 Hがかつて一緒に働いたアメリカ人とドイツ人が、 彼の前でお下品な話を度々していたらしい。 その「性の寺子屋」で、彼はコンドームのことを含め、 「いろいろと有意義なことを学んだ」、とのことだ。 何を学んだのかは、教えてくれない。 ここガザで、敬虔なムスリムのHにとって、 持つべきものは助平な外国人の友人だ。 しかし、まだ彼はコンドームの実物は見たことはない。 いわく、「ガザでは売っていないから」。 それに、「一生見ることもないだろう」 と。 ためしに、見てみたいかと聞くと、 「今度ガザに来るときに、持ってきてもいいぞ」 とのこと。なんだその言いっぷりは。 見たいなら見たいと言いなさい。 が、考えてみたらそれはちょっとリスキーだ。 「ハマスのチェックでコンドームが出てきたら、 えらい目にあうのは俺だろうが」。 そう言うと、それもそうだな、と彼は真顔で納得していた。 ちなみに、後の調査によると、 ガザでも薬局でコンドームは売っているとのことです。 今度Hに教えてやろう。 #
by lusin
| 2009-07-07 05:02
| パレスチナ/イスラエル
2009年 07月 05日
ガザに入るとき、ハマス支配以前にはなかった荷物検査をされた。
イスラムに反するものを持ち込まないかをチェックするとのこと。 ハマスは、メディアでは 「イスラム原理主義組織」 「イスラム過激派」 などと呼ばれるが、とてもイスラムにうるさい組織だ。 2年前に政敵のファタハとの内輪揉めに勝利して以来、ガザを牛耳っている。 荷物検査では、酒や破廉恥な本などは即没収されるらしい。 面倒くさいなあ、そういうの、やめようよ・・・と思うけど、しょうがない。 もちろん、そんなものは持ち込むつもりはありません。 ・・・が、若干の気がかりなことがあった。 エルサレムのある日本人宅で、夕食をご馳走になった時に、 「ぜひガザに持っていくといい」 といただいた、 キッコーマンの醤油(1リットル)のことだ。 案の定、しかめ面の検査官の目がキラリと光り、 醤油のボトルをつまみあげた。 「これは何だ?」 用意していた言葉を返す。 「日本のソースです」 そんな説明ではちっとも疑いが晴れないらしいので、 「豆から作る。もちろん酒ではない」 と続ける。 表情は変わらない。 まったく、以前のゆるゆるの係官が恋しい。 「魚にかけたりする」 まだ晴れない。 「スシにもつける」 一向に険しい表情はゆるまない。 「すごくおいしい」 ・・・彼にはまったく関係ない。 疑いは深まる一方のようだ。 うーむ、甘く見てたなあ、もっと適当だと思ったんだが。 いちいち外国の調味料を疑ってたらきりがないと思うけど。 またどこぞのアメリカ人が酒を持ち込もうとして見つかって、 彼らの警戒心を刺激した直後だったりとか・・・? あるいは新米で気合が入りすぎてるとか。 こういう時って、どうやって説得すればいいのだろうか。 味見して確かめてもらうわけにもいかないだろうし。 にしても、にらみつけてたって、真相が分かるわけでもなし。 こう着状態が続いた。 面倒くさくなったので、ふたをあけて、匂いをかがせた。 すると検査官は、ぐおっ! と激しく表情をゆがませた。 醤油でこのリアクション・・・こちらは必死で笑いをこらえた。 やばかったかな、とも一瞬思った。 が、しばしの後、一転して彼は笑いながら 「オーケーオーケー」と。 うーむ・・・。 オーケーなのは結構ですが、いったいどういう基準なんだろうか。 敬虔な(はずの)彼は匂いで酒かどうか分かるのか? だとしたら、少なくとも酒の匂いはかいだことがあると、いうことになるけど。 ・・・まあ、いいか。 #
by lusin
| 2009-07-05 05:44
| パレスチナ/イスラエル
2009年 07月 04日
久しぶりにガザに来た。
水タバコの匂い、市場の喧騒、乾いた空気と日差し、 やかまし過ぎるおやじの怒鳴り声、甘すぎる紅茶・・・ すべてなつかしい。 友人たちに、ひさしぶり、とあいさつまわりをしている。 最後にガザを訪れてからの約2年半の間に、 ガザではさまざまなことが起きた。 その間に大きく変わったこと、変わらなかった多くのこと。 連絡のつかない友人たちは、どうしてるのだろうか。 捜索本部を立ち上げ、行方を追っています。 #
by lusin
| 2009-07-04 04:52
| パレスチナ/イスラエル
2009年 04月 30日
Hさんが絵本屋さんの店長になった・・・というウワサを聞いた。
本人に確認してみると、そのウワサは事実であった。 Hさんとは、かつてパキスタン・アフガニスタンで、 1年近く寝食と苦楽を共にした。 日本のNGOで、アフガン人スタッフの猛者たちを まとめあげていた豪傑だ。 が、見かけによらぬ繊細さ(?)も持ち合わせていて、 そのギャップがえもいわれぬおかしみを醸し出していた。 Hさんのおかげで、しんどいことも多い彼の地での日々が、 とても味わい深いものになったのだった。 ある時、ペシャワルで彼と将棋をする機会があり、 何かを賭けよう、ということになった。 Hさんが賭けたのは、「僕の娘にオリジナル童話を書く」ということ。 僕が賭けたのは・・・なんだったかすっかり忘れたが、 とにかく、勝負には僕が勝った。 Hさんは歯ぎしりして悔しがっていた。 なぜ童話なのか。 じつはHさんは密かに(?)童話作家を目指していたのだ。 強面のその口から発せられる絵本やら童話やら、 「子どもの心のやわらかさ」やらの話には、 失礼ながら、なぜか時に笑ってしまうのだが、 どうやら本気らしかった。 その後HさんはNGOを去り、再び海外支援に関わり、 紆余曲折あり、いつの間にやら、 京都で絵本屋の店長となっていた。 「お店で子供たちに絵本のことを話すHさんの図」 は、 まったくHさんらしいのだが、なぜかやはり笑いをさそうのだった。 お店のサイトを見ると、アフガンの子供の絵の展示をしたり、、 店長Hさん自ら、アフガンのお話なんかもしてるらしい。 そんな絵本屋さん、いいっすね。 ちなみに、賭け将棋での獲物である 「娘へのオリジナル童話」はまだ書いてもらってないない…。 当のうちの次女は、大の本好きになったのですよ。 自分のために見知らぬおっさんがオリジナル童話を書いてくれたら、 きっとひどく喜ぶはず。 娘は自分でもお話をいくつも書いている。 将来は小説家、なのだそうな。 最近彼女が書いた「めろん太郎」というお話は、秀逸であった。 Hさんにぜひ会わせて、二人の絵本話を聞いてみたいものだ。 お近くの方、愉快な店長のいる絵本屋さんをぜひのぞいてみてください。 子どもの本専門店 きんだあらんど #
by lusin
| 2009-04-30 17:21
| 袖触れ合うも~
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