つつがある日々:袖触れ合うも~
2009-05-01T09:28:09+09:00
lusin
Keisuke Otsuki
Excite Blog
京都の絵本屋さん
http://sawa.exblog.jp/10839303/
2009-04-30T17:21:00+09:00
2009-04-30T20:02:01+09:00
2009-04-30T17:22:49+09:00
lusin
袖触れ合うも~
本人に確認してみると、そのウワサは事実であった。
Hさんとは、かつてパキスタン・アフガニスタンで、
1年近く寝食と苦楽を共にした。
日本のNGOで、アフガン人スタッフの猛者たちを
まとめあげていた豪傑だ。
が、見かけによらぬ繊細さ(?)も持ち合わせていて、
そのギャップがえもいわれぬおかしみを醸し出していた。
Hさんのおかげで、しんどいことも多い彼の地での日々が、
とても味わい深いものになったのだった。
ある時、ペシャワルで彼と将棋をする機会があり、
何かを賭けよう、ということになった。
Hさんが賭けたのは、「僕の娘にオリジナル童話を書く」ということ。
僕が賭けたのは・・・なんだったかすっかり忘れたが、
とにかく、勝負には僕が勝った。
Hさんは歯ぎしりして悔しがっていた。
なぜ童話なのか。
じつはHさんは密かに(?)童話作家を目指していたのだ。
強面のその口から発せられる絵本やら童話やら、
「子どもの心のやわらかさ」やらの話には、
失礼ながら、なぜか時に笑ってしまうのだが、
どうやら本気らしかった。
その後HさんはNGOを去り、再び海外支援に関わり、
紆余曲折あり、いつの間にやら、
京都で絵本屋の店長となっていた。
「お店で子供たちに絵本のことを話すHさんの図」 は、
まったくHさんらしいのだが、なぜかやはり笑いをさそうのだった。
お店のサイトを見ると、アフガンの子供の絵の展示をしたり、、
店長Hさん自ら、アフガンのお話なんかもしてるらしい。
そんな絵本屋さん、いいっすね。
ちなみに、賭け将棋での獲物である
「娘へのオリジナル童話」はまだ書いてもらってないない…。
当のうちの次女は、大の本好きになったのですよ。
自分のために見知らぬおっさんがオリジナル童話を書いてくれたら、
きっとひどく喜ぶはず。
娘は自分でもお話をいくつも書いている。
将来は小説家、なのだそうな。
最近彼女が書いた「めろん太郎」というお話は、秀逸であった。
Hさんにぜひ会わせて、二人の絵本話を聞いてみたいものだ。
お近くの方、愉快な店長のいる絵本屋さんをぜひのぞいてみてください。
子どもの本専門店 きんだあらんど]]>
借りっぱなし
http://sawa.exblog.jp/8501465/
2008-04-30T12:33:33+09:00
2008-04-30T12:29:39+09:00
2008-04-30T12:29:39+09:00
lusin
袖触れ合うも~
彼女は大学探検部の先輩であり、古巣に勤めていた時には南インドやチェコやイスラエルに一緒に行ったディレクターであり、何より愉快な飲み友達であり、良き相談相手であった。
おとといの夜中に、友人からの電話で訃報を知った。ネパールで取材中だった。 まだ詳しいことは分かっていないが、高山病だったとのことだ。
訃報を聞いた直後、どうしてよいのか分からなくて、とりあえずしたことは、なぜか歯をみがくことだった。それからお茶を入れて、それを飲んで、そして、電話で中断していた映画の続きを観た。今思えば、大切な人の死の直後にとるには奇妙な行動だ。 わけがわからない。これまで世界中を取材し、殺しても死ななそうな師匠が、あっけなく亡くなった。まるでピンとこなかった。昨日も、まだ実感がなかった。
でも、今これを書こうとすると、一緒に行った海外での愉快すぎる道中や、新宿や中野や高円寺や阿佐ヶ谷の飲み屋でべろべろになりつつバカ話をしたり、ニコニコ顔で説教してくれたことや、毒舌だけども、いつも阿呆な後輩を何かと気にかけてくれていたことが次から次へと思い返されてきて、やっと、じわじわと、師匠が死んだということを感じ始めている。・・・たまらなく悲しくさびしくなって、とても苦しい。 自分にとって、ほんとうに大切な人だったんだなあと改めて思う。
かつて師匠は、一緒に飲むと、出世払いで返しなさいと言って、よく無理矢理おごってくれた。その借りを、まだ返していないなあ。これから、どうやって返していけばいいだろうか。]]>
人ったらし
http://sawa.exblog.jp/8009908/
2008-02-03T00:55:00+09:00
2008-03-30T23:35:30+09:00
2008-02-03T00:55:19+09:00
lusin
袖触れ合うも~
先日、そのY師匠を囲む宴を催した。 転職祝だ。師匠はもともとファッションカメラマンで、パリやらニューヨークやらで、きれいなおねいちゃん達の写真を撮っていた。かなり稼いでいたらしい。が、何を思ったか、ある時からトラック野郎をしつつ、撮れば撮るほど金が消えていくという、パレスチナの写真などを撮り始めた。がしかし、またしても何を思ったか、ある時から地雷撤去の重機を作る会社で働き始めた。意味不明だった。・・・が、今度、再び写真の仕事に戻ると言う。というわけで、慣れないお勤めご苦労さまでした&おめでとう、の宴を催したのだった。
師匠のことを慕う・憂える・楽しむ面子が集まり、新たな門出を祝福した。師匠にはいつものごとくひどく笑かせてもらったが、中でも秀逸なのが、昨年のお勤め時代の、アンゴラでの商談の、恐るべき武勇伝だ。ほんとにあまりに恐ろしすぎて残念ながらここにはとても書けないが、聞くのは2度目にもかかわらず、もーたまらん。それにしても、本人が自分のしでかしたことのスケールのデカさに気づいているのかどうかは、ナゾであった。
ところで、師匠はとてもユニークな本を出している。内容は、イスラエル・パレスチナのさまざまな若者のポートレートとインタビュー。 ある時のこと、僕はエルサレムの宿で、写真を学ぶパレスチナ女性と、その本を見ながら話していた。彼女、食い入るようにその本を見たあと、言った。「この著者はただ者じゃない・・・」
「何が?」 と聞くと、彼女はあるページを指さした。イスラエルの女性兵士のポートレートだった。「著者がなぜこの女性兵士を取材しようとしたか分かる? それは、かくかく云々で~」 。彼女は著者の非常に深い意図 (への大いなる仮説) を説明し始めるのだった。それを聞いた僕は、これはいかん! と、思わず師匠の代弁をした。 「えーと、著者が彼女を取り上げた理由はだね、ズバリ、この女性兵士のおねいちゃんが、とてもカワイく、彼の好みだったからです!」
・・・しかし、彼女はそんな僕の言葉にはまるっきり耳を貸さずに、師匠がその女性兵士に目をつけた、その恐るべき慧眼と深い政治的な洞察と批判精神について思いをめぐらせ、ひどく恐れ入っているのであった・・・うーむ。
かように、師匠はたびたび、人を意図せずしてたぶらかしてしまうのである。恐るべし。関係ないが、師匠は料理もうまい。フットワーク軽い。ひどく面倒見がいい。子どものような女性への好奇心。人たらし・・・。 ちなみに、宴の翌朝に控えていた転職後の初仕事は、よく分からんが、「ビューティー撮影」 とのこと。楽しそうだなあ。
敬愛するY師匠が、新たな舞台でまた武勇伝を生む頃に、再び囲む会をしよう。・・・うーん、桜の咲くころかな。
追記:
井の頭公園の桜の満開の下、やりました。
師匠は相変わらずのキレ味で場をゆるませまくってくれました。
]]>
愛の盆唄
http://sawa.exblog.jp/7954696/
2008-01-19T09:09:00+09:00
2009-05-01T09:28:09+09:00
2008-01-19T09:09:10+09:00
lusin
袖触れ合うも~
で、取材とはまったく関係ないんですが、下北のとある小さな村で、その村に江戸時代から伝わるという盆唄の存在を知りました。およそ200の歌詞が今に伝えられているというその唄の中に、こんな一節がありました。
「遠く離れて逢いたいときは 月が鏡となればよい~」
おお・・・。 この村ではかつて、男たちは漁に出ると何か月も村を離れることもあったとのこと。遠く離れた大切な人を想い、村の人たちが歌ったという・・・げにまっこと、ロマンチックですね。 昔から人の想いってのはそう変わらないんだということに、不思議な気持ちになったのでした。ちなみにこの一節は、村と津軽海峡を隔てて向き合う北海道の町でも盆踊唄として歌われていて、会津の民謡にもあるとのことだし、一体、あなたの生まれはどちらなんでしょうか。
ところで、この唄で思い出したのが、僕が小学生の時にもらった恋文。そこには、「夜、月を見ると、あなたのことを思い出します」 ・・・と。 当時、今にもまして阿呆であった僕は、その文章が別の意味でツボにハマり、 「なんじゃそりゃー!?」 と大爆笑。 まったく失礼千万なガキですね。これ、今思えば、小学生にしてはなかなか粋で奥ゆかしい、素敵な恋文なのだけども、ほんとその年頃の男子は、困ったことに、阿呆なんですね。
それはともかく、月は僕にとってとても大切な存在なのですが、そこにスコーンとくる唄に本州のはしっこの過疎の村でお目にかかり、なんだかとても嬉しかったです。いつ、どこで誰がひり出したのやら知れずの、このシンプルな唄を肴に、妄想牧場で放牧してます。
]]>
コピ・ガヨ
http://sawa.exblog.jp/7878366/
2007-12-29T17:56:00+09:00
2009-05-01T09:28:09+09:00
2007-12-30T00:29:40+09:00
lusin
袖触れ合うも~
その店は世界各地のコーヒーを揃えている店なんだけど、これまた何気なくメニューを見ていると、見慣れないあるコーヒーが目に留まった。 「ガヨマウンテン」。
・・・ガヨ?
メニューの説明を読むと、アチェ地方のガヨ高原でとれるコーヒーとのこと。・・・おお・・・やはり。このガヨマウンテン、現地ではコピ・ガヨ(ガヨ・コーヒー)と呼ばれている。うーむー、この時期にコピ・ガヨに再会するとは。
3年前の12月26日、スマトラ島沖地震によって、大津波が発生した。スマトラ島北部のアチェはその最大の被災地だ。パレスチナにいた僕は、会社からの指示でバタバタと現地に飛び、しばしアチェに留まって取材をした。最初は仮設宿のようなところに寝泊まりしていた。今まで、駅とか道ばたとか山の中とか砂漠のど真ん中でよく寝ていたので、特に不便はなかったのだけど、トイレでの地獄絵図にだけは閉口した。
その後、民家に間借りし、そこに寝泊まりするようになった。 ひょんな縁で出会ったその家の人々は、本当にホスピタリティーあふれる素敵な人たちだった。食事も涙が出るほど美味く、僕たちの貧しかった食事事情は飛躍的に改善された。そして、その家で毎日飲んでいたのが、コピ・ガヨ なのです。
毎日の取材を終えて這這の体で「我が家」に戻り、夕食後に遅くまであれこれ作業をしていると、家のお母ちゃんがニコニコしながらやって来て、「コピガヨ~?」 と聞いてくる。コロコロと転がるような、やわらかい響きの現地の言葉で。それだけで、 なんだか一気に心身ともにゆるんでしまう。「(まってました!)オー、コピ・ガヨ~! トレマカシ~(ありがとう)!」 というやり取りが、日々繰り返された。
体力的にはしんどかったが、その家族とコピ・ガヨのおかげで僕たちはとても和み、大いに助けられた。本当に美味しいんです、コピ・ガヨは。僕の中で、コピ・ガヨは、燦然と輝く「ザ・キング・オブ・コーヒー」です。
そのコピ・ガヨに、日本で再会するとは、思ってもみなかった。それも、あの日から3年目を迎える直前に。東京で飲んだコピ・ガヨも、とても旨かった。実は、コーヒー通の間では知られたコーヒーなのだろうか?
舌から、かの地でのいろいろな記憶がじわわ~んと広がっていった。 当然ながら、当時のアチェは、至るところ悲劇だらけだったんだけど、思い出されるのは、ニコニコした人たちばかりなのは、とても不思議だなあ。
アチェで出会ったみなさん、元気でやってるだろうかな。 避難所暮らしをしていた家族。早々に漁を再開して自立した、漁師魂炸裂のおっちゃん達。 家族をなくしたちびっ子たち。みな元気でやってるだろうか。・・・明るくたくましい人たちだから、きっと元気にやってることでしょう。
そして、改めて、命を落とされた多くの方々のご冥福をお祈りします。
]]>
野球少年
http://sawa.exblog.jp/7214041/
2007-07-30T17:56:56+09:00
2009-05-01T09:28:09+09:00
2007-07-30T17:56:56+09:00
lusin
袖触れ合うも~
当時は20人近くのメンバーがいたけれど、今はやっと1チームが作れる人数。子どもの数自体が少ないことに加えて、今はやっぱり野球よりサッカー、なんだろうか。
で、かつての感覚ではちょっと信じられないのだけど、キャッチボールというものを経験したことがなく、野球のルールも知らないという子も少なくない。初めは、「レフトって何?」「打ったらどうするの?」 という子もいたらしい。練習中や試合中の 「声の出し方」 も当然ながら分からず、「声出してこー!」 と言っても、初めはなかなか反応ナシだったり。
それにしても、練習する場所がない、というのがかわいそうだ。私が小学生の頃は、そこら辺の公園で試合していたし、所かまわずキャッチボールくらいできた。が、今はほとんどの公園は 「キャッチボール禁止」 だし、いつも練習していた大きな公園は、再開発だか何だかで、立ち入り禁止になっている。まったく都会っ子はツライよ、だ。
余談だが、もひとつ当時と比べて変わったなあ、と思うのは、お母さん方がとても協力的だということ。当時は、子どもたちで勝手に毎日3時間も4時間も練習してて、母親たちは 「まったく飽きもせずよくやるわよねえ」 てなスタンスだったんだけど、今はスケジュールは大人が決めて、練習には何人ものお母さん方が立ち合い、あれやこれやと手伝ってくれるのだ。この変化は一体何ゆえ? ・・・そういう私自身が、手伝っている大人の一人なんだけど。息子がエラーしたりすると、「コルアーー!! しっかりやれ!! 晩飯抜くぞ!!」 とエキサイトする熱いお母さんもいたりして、楽しい。
練習には、早朝と夕方の小学校の校庭を使わせてもらう。時に校長先生が顔を出し眺めているが、辛抱しきれず、教え子たちに向かって 「しっかり相手の胸に向かって投げなさい!」 と叱咤したりしてて笑える。若手の先生がひょこっと現れては、私の娘などの「連れられてきた女の子たち」と遊んでくれたりもして、ありがたい。
そんなこんなで、先日、大会の日を迎えた。
結果はというと、わが地区のチームは緒戦がコールド負け。続く敗者戦も、やはりコールド負け・・・。やっぱり、強いチームには少年野球チームに所属している子が何人もいたりして、「キャッチボール初めてやりました」 という子たちを擁する我がチームとしては、なかなかにきつかった。
試合開始時の、相手ベンチからの「行くぞー!!」と走りだす声につられ、こちらからも思わず走り出してしまうおっちょこちょいな子がいたり、三振やフォアボールになったのが分からずにバッターボックスに居座り続け、審判に注意される子たちがいたり・・・という調子だったけれども、とにかく、皆がんばった。緒戦で対戦したチームは優勝したのだけど、そのチームから点を奪ったことも、本当にほめてあげたい。
その夜、子ども達と練習を手伝ってきた大人たちとで打ち上げがあった。監督をしてくださったお父さんは、その席で、「負けたけれども、君たちはチームワークでは優勝でした!」 と、お約束だけれども、やさしいねぎらいの言葉を子供たちにかけていた。
子どもたち一人ひとりからのあいさつでは、「負けてしまったけれど、楽しかったです」 てな感想を披露する子が多かったけど、中には涙ぐんでしまう子も。・・・ そうだよなあ、試合に負けると悔しいよなあ。その気持ちがあるなら、OKです。
そして、今年が最後の大会になる6年生のお母さん方からもあいさつ。お母さん方、ちょっと子どもたちの世話焼きすぎじゃないかなあ、と思わされることもあったけど、野球なんかやったことがなかったという息子の挑戦に、ハラハラドキドキ、一喜一憂し、そしてユニフォームを着た息子の晴れ舞台を迎え・・・惨敗はしたけれど、精一杯やった息子をねぎらうお母さんたち。「もう年だから涙腺がゆるんで・・・」 と、ちょっとうるうるしているお母さんも。娘しかいない父親としては、息子を想う母親の気持ちは正直よく分かりきらんところがあるけれど、何だかこういう光景も悪くないなあ、となぜかつられてちょっとホロリ。
私は、来年は一勝しようや、楽しんでやるのも大切だけど、勝つ喜びも味わおうや、そのためにがんばろう、と子どもたちに声をかけ、監督のお父さんとも、「来年はもっと早く練習始めましょう」 などと熱く語ってしまった。なんだかんだ言って、関わる大人自身が楽しんでるのだった。
自分の住む町にどんな子がいて、どんなお父さん・お母さんたちがいるのかを知れたのも、とても良かった。何せ、しばらく地元、というか母国を離れてフラフラしていた身なので。
それより何より、いいトシして、小学生に混じって 「バッチコイー!!」 「ナイスピー!!」 だのやるのは、20年前に逆戻りしたようで、かなーり楽しかった。かつて身体に染み込ませた楽しさというのは、なるほど大人になったフリをしてても消えないもんなのだなあ、と思わされたのだった。]]>
イランからの家族
http://sawa.exblog.jp/5251103/
2006-07-13T01:21:00+09:00
2009-05-01T09:18:48+09:00
2006-07-13T01:21:20+09:00
lusin
袖触れ合うも~
毎度世話になっている、空港内のトランジットエリア在住のパレスチナ難民ジョージに会おうと、彼がかつて陣取っていた場所へ行くが、彼の姿はない。 すでに晴れて第三国へと渡ったのだろうか、あるいは故郷へと帰っていったのだろうか。
とりあえず、8時間のトランジット中、眠ろうと、新聞紙を広げて横になる。この空港のトランジットエリアの充実度は涙モノなので、人通りの少ないエリアでそのようにしている旅行者がチラホラ。
1時間くらい眠ったころ、少年少女とおばちゃんのけたたましい笑い声に目を覚ます。 顔を上げると、まさに少年少女とおばちゃんがすぐ横でトランプに興じていた。 床にマットを敷き、傍らには山と積まれた荷物。
・・・ヒマだったので、話しかけてみる。 彼らは、イラン出身の親子とのことで、カナダへ向かう途中らしい。 が、少年は「僕らはここに住んでいる」 と言う。 住んでる? 彼らも、ジョージと同じく空港で宙ぶらりん状態なのか? 果たして、そのとおりであった。 もう1ヶ月ちかく、ここに暮らしているとのこと。
親戚のいるカナダに行こうとして、なぜかモスクワまで来たのだけど、ビザがないのでそれがかなわず、イランに戻る気も全くなく、ここにとどまっているとのこと。 カナダの親戚が、弁護士をよこしてくれることになっているので、それを待っている、と。
あまり詳しくは話したくない様子であった。
そうですか、大変ですね、と言うしかない。
話題を変えて。
イランといえば、言わずもがなのイスラム国。そして、コーランはイスラム世界共通。 親善をはかろうと、「あのね、僕はアラビア語ちょっと勉強してて、コーランも少し言えるよ、聞いててな。」 と、唯一かろうじて覚えている部分を、そらんじてみた。 インドネシアの取材では、何度これに救われたことか。これで、ムスリムとの距離は、一気に縮まる・・・はずであった。
が、しかし。家族の反応が芳しくない。 というよりは、かなり冷ややかな・・・そしてちょっと悲しげな・・・あれれ? あなた方の聖典、クルアーンですよ、ご存じない? ひょっとして、何か、外した?
少女がボソリ。
「私たちは、クリスチャンです。」
さらに。
聞けば、実は彼らは圧倒的多数がイスラム教徒であるイランにおいて、宗教的な理由で大きな問題を抱えたために祖国を後にせざるをえなかったと言うのだ。つまり、彼らにとっては、イスラムはまさに仇のようなものだ。
外しも外したり、大外しである。先入観というのは恐ろしい。そりゃ、イランの中にも、クリスチャンはいるだろうて・・・ガザにだっているんだから。少女は、思い出したくないことを思い出したのか、かわいい顔を憂いに沈めてしまった。 さらに連鎖して話は飛び、「お父さんは、亡くなったの・・・」 とボソリ。
これを「気まずい空気」 と言わずして、なんと言おうか。何か言わねば。 えーと、イランと言えば、ペルシャ語だな。 ペルシャ語と言えば・・・
「タシャコル!」
思わず出たこの言葉、ありがとう、の意である。 この状況で、「ありがとう」 とのたまうアホな日本人が、ここに一人。 大きな墓穴を掘ったかに思えたがしかし、人の反応というのは分からないもので、これが予想に反して、大当たりであった。
少年、「おおお?? こいつ、ペルシャ語知ってるのか??」
お母さんも、娘さんも、パーっと顔が明るくなる。 思いがけずに失地回復に成功したらしい。嬉しさのあまりか、彼らはペルシャ語でいろいろと話しかけてくるが、タシャコル以外は出てこないので、ひたすら繰り返す。まあとにかく、外国語は身を助く、ということで。
その後、なごやかな雰囲気を取り戻した私たちは、ジョージの話で盛りあがった。 実は彼は、つい最近までここにいたのだそうな。 3人ともそれぞれ言うことが違うのだけれど、彼らの情報によると、カイロに行って商売を始めたか、パレスチナに戻ったか、もしくは他のアラブの国に行ったか、らしい。いずれにせよ、彼が望んでいた欧米の国に渡ることは叶わなかったのだろうか。
「彼さ、ここで商売してたんたよね、オカシイよねー!!」
と、少女が、思い出すだけで笑ってしまうという風情で話す。まあ確かに、彼は愉快な男だった。さらに彼女、
「今は夏だから、彼の商売道具の寝袋も、熱い茶も、売れないよねー、カワイソー!!」
てな感じで噴き出してしまい、まったく屈託がない。 ムスメさんらしいと言えばムスメさんらしく、それに確かに、今はそんな商売は成り立たんでしょうが、傍目には、あなた方も十分、カワイソー、です。
そんなところへ、中国人の一団がやってくる。
そしておもむろに、彼らは家族に話しかけ、聞き取りを始める。 どうやら、「私たちにできることがあれば、何かしましょう」 ということのようだ。そして、家族がリクエストしたのは、彼らの写真を撮り、くだんの弁護士に送ってほしい、ということのようだ。 お安い御用、ということで、中国人の女性が、カメラを取り出す。 するとおばちゃん、「待って!」 と叫ぶ。 化粧直しでもするのか? そうではなく、彼女はドカドカと私の寝床である新聞紙の上にやってきた。子供たちも呼び、そして、申し合わせたように3人で肩を落としてうなだれたかと思うと、家族の表情は憂いを帯び、瞬く間にレ・ミゼラブルな一家と化した。
なるほど、窮状を訴える大事な写真、写りは大事だ。大荷物があったり、マットの上でくつろいでいたりしてはいけないし、屈託なく笑う娘がいてもいけない。そうして、中国人女性が写真を撮り終えるやいなや、家族は彼女を取り囲み、写真を見せろ、と厳しいチェックを始め、ダメ出しをする。 この写真とこの写真はイマイチだから、送るのはこれにして、と。
ところで、彼らはできれば親戚のいるカナダに行きたいのだが、イランを出れて、イスラム国でなければ、どこでもいい、とも言っていた。中国でもいいし、もちろん日本でもいい、と。それを聞き、無責任ながらも 「カナダがダメでも、日本に来れるといいねえ」 と言えればいいのだけれど、日本への難民申請者を待ち受ける困難を考えると、全くオススメできない。
つかの間とは言え、こうして関わった家族に、牛久の入管の収容所になんか入ってほしくないし、悪名高き入管職員の心無い対応によって、彼らに日本人嫌いにもなってほしくない。多くの、そのような例を見聞きした。 あえてそんなことは言わなかったけれど、もし、まかり間違って日本に来て困った時のために、あなた達のような外国人をサポートしてる知人を紹介するから、と自分の連絡先を教えた。
彼らの言う、「イランでの宗教的な問題」 が具体的には何なのかは、硬く口を閉ざして話してはくれないのでなんとも言えないけれど、10中8,9、いや、それ以上の確率で、おそらく日本では難民申請はまず却下されるだろう。 できれば自分の国には来てほしくない、と思わざるをえないのは、まったくもって切ないことだ。
少年、「一緒に写真撮ろうよ」 と私の横に座り、彼らのカメラ付きケータイで、パチリ、パチリ。
「あんたが次にモスクワに来た時にも、私たちはここにいるかもしれないから、探してみてよ」 とお母ちゃん。
もちろん、そんなことがないようにとは願うけれども、同時に、困ったことに、また会いたいな、などとも思ってしまうのだった。]]>
あの人たち
http://sawa.exblog.jp/3919643/
2005-12-18T13:17:10+09:00
2009-05-01T09:18:48+09:00
2005-12-18T13:17:10+09:00
lusin
袖触れ合うも~
そんな家族が、世界中のあちこちにいる。・・・ほんと、あらためて、自分は図々しい男だなあ、と思うけれど。そして、居候までしなくても、あれこれ親切にしてくれたり、馬鹿話をしたり、いっしょに飯を食ったり、あるいは私をぼったくろうとしてけんかになったり・・・とにかく、ともに時間をすごした人たちが、世界中に、日本中にいる。その多くが、もう二度と会うことはないだろう人たちなのだけど、彼らが世界中のあちこちにいて、今のこの時も、飯を食ってたり、笑ってたり、泣いてたり、屁をこいていたり、あるいは誰かをぼったくろうとしていたりするのだろう、と思いをめぐらすことは、とても楽しい。
**********
2005年の消滅まであと13日 ©マエダ
]]>
おでんと社長
http://sawa.exblog.jp/3178864/
2005-07-22T13:01:00+09:00
2006-01-10T17:35:03+09:00
2005-07-24T13:08:14+09:00
lusin
袖触れ合うも~
60才を過ぎているが、パナマ帽を小粋にかぶり、銀座をさっそうと歩く I さん、かつて某東南アジアの小国のプリンセスと恋に落ちた、というもっぱらの噂だ。 この人なら十分あり得るだろうなあ。 べらんめえ調で話し、きっぷのよい I さん、時に社長業を離れて番組の撮影にでかけてしまったり、ADが足りないときには使い走りのような仕事までこなす、とても腰の軽いイカした社長だ。
私が大学在学中、友人がここでの仕事を紹介してくれた。 社長と面接、ということで、少々しゃっちょこばって会社に行くと、I さんにいきなりベトナム料理屋に連れて行かれ、雑談をしながら昼飯をとり、食べ終わると、「よし、じゃあ今日からやってくか」 と。 履歴書も何も渡していないのだけど。 一つだけ念を押されたのは、「君は、『葉っぱ』はやるか? それだけはなあ、メディアの人間として、ご法度だからな。」と。
おでん屋で、上機嫌のI さんは、この会社の役割を 「石を投げること」 と度々言う。
「なあ、あの水槽を見てみろ。俺たちの仕事ってのはなあ、ああいうところにポーンと、小石を投げ込むことなんだよ。 そうすると、静かな水面にさざ波が立つだろ? それを、俺たちは眺めて楽しむんだよ。」
人々が知らないこと。 関心のないこと。 知るべきこと。 目を背けたいこと・・・そういう水面に、石を放り込む。
「で、たまにはそのさざ波がだな、大波になって、世の中を揺さぶることもあるんだよ。」
実際に、I さん達が北ベトナムから送り続けた貴重な映像は、当時の世界を揺さぶったのだった。
その後、I さん行きつけのバーへ。 道すがら、「俺はなあ、キレイで優しい女と、自由な人間が大好きなんだよ。 お前もな、自由に生きろ」 と。 ・・・社長の言う言葉だろうか・・・本当に素敵な人だ。でも、私はこれ以上自由になったら、本当に糸が切れてどっかに飛んでいってしまう。 バーに着くなり I さん、顔見知りの女性に、「いやあ、今日も一段とキレイだねえ。」 と話しかけていた。
それから、I さんはいろいろなことを話してくれた。 撮影のこと。 会社への想い。 男女のこと。 メディアについて。 これからの展望。 幸福について・・・。 人生の大師匠、恩ある I さんに、早く恩返しがしたいものだ。]]>
疑心暗鬼
http://sawa.exblog.jp/2629925/
2005-04-29T01:44:00+09:00
2009-05-01T09:20:49+09:00
2005-05-01T01:51:58+09:00
lusin
袖触れ合うも~
彼は、昨年の夏にイギリスからやって来て、パレスチナでビデオ撮影をして回っていて、たまに行動を共にした。 イギリスでは庭師が本業だが、ライフワークとして、自主フィルム制作もしている。 ちょっとアナーキーな香りがほのかに香るおっさん、聞けば、様々な過去が・・・どおりで・・。
そのマイケル、昨年の滞在後半に同じ宿のギャルと恋に落ち、いい年して(推定45?)半ば骨抜きになってしまっていた。 そのため映画の完成が危ぶまれていたが、どうやら、何とか完成したらしい。
この宿には、世界中から多種多様な人間が集まる。ジャーナリスト、映画監督、活動家、戦場漫画家(これは友人)、写真家、出稼ぎ労働者、パフォーマー、巡礼者・・・。 もちろん、普通のバックパッカーも大勢いるが。
今、この宿で最も熱いのは、インド・ボンベイ出身のおばちゃん。 この宿に泊まりつつ、イスラエル人の家庭でハウスキーパーとして働いている。
マリアという名のこのおばちゃん、とにかく、インディアン・イングリッシュで常に吼えている。今朝は、「猫にエサをやるな!!」と、ドイツ人のおばちゃんに激しく噛み付いていた。昨日は、共同パソコンを使いすぎる、とニューヨーカーの兄ちゃんを罵っていた。しかし、さすがアメリカン、彼が反論すると、その反撃が予想外だったようで、一瞬きょとんとしていた。 直後、しっかり10倍返し。 さらにおばちゃん、インド人なだけに、自炊でカレーを作っているのだが、その鍋を少しばかり動かした日本人パッカーも、ガンつけられた上にこっぴどくシメられていた。しかしやはり日本人、面と向かっては反撃できず、いつも陰で「あのババアー!!」と吼えている。
しかし、この最強かつ最凶のおばちゃん、私にはなぜか優しく接してくれる。 カレーを分けてくれたり、アイスをくれたり、「長期滞在するならいいアパートがあったら教えてあげる」と気遣ってくれたり・・・。
失礼にも、「何を企んでいるのか!?」などと勘ぐってはいけない。 きっと、私のようなプリティーで人畜無害な人間とは、相性がいいのだろう。 もしくは、国に残してきた息子が私に似ているのかもしれない。いや、ひょっとすると、若かりし日に恋に落ちた日本人とウリふたつなのかも。 いやいや、やっぱり・・・・。
・・・疑心暗鬼。 恐るべし、インドおばちゃん。 マリアの名前は伊達じゃない。今度、出稼ぎ中国人とのバトルを見てみたい。
]]>
I love サーメル
http://sawa.exblog.jp/2613537/
2005-04-22T23:15:00+09:00
2009-05-01T09:20:49+09:00
2005-04-28T21:15:57+09:00
lusin
袖触れ合うも~
バスでの道中、イラク支援のことなどをお聞きする。マスメディアからアフガンやイラクが消えたとしても、彼の地の状況は良くなっているわけではないし、地道に活動を続けている人も、いる。しかし、やはり支援金の集まり具合ということになると、メディアでの露出度に比例してくるので、今はなかなかしんどいだろうなあ。
まあ、それを言うと、アフリカなどは完全に人々の関心の外にあるので、イラク支援活動などは現状では一番「恵まれている」ということになるのだろう、と言おうとすると、「でも、そう言って何もしないよりは、話題になったところだけでもいいから、何か支援をした方が、何もやらないよりもずっといい」 と。 もちろん、そのとおり。
バスステーションで降り、タクシーでダウンタウンへ。 いつものようにクリフホテルに泊まる。ここは、日本人人質事件や、殺害された香田さんの一件で有名になった宿。 バックパッカーが集まり、倦怠感がそこはなとなく漂う宿で、しかも近所からの騒音が一晩中けたたましく、さらには近隣の食堂からの匂いが部屋に立ち込めている、という、ひとつ星の宿、つまり、いわゆる安宿。
が、私は安さと、名物従業員のサーメルの存在ゆえにここに泊まっている。 彼はむちゃくちゃな文脈で、「どういたしまして」を繰り返す、気のいい兄ちゃん。 がめついオーナーの目をごまかして、シャワー代や電話代をこっそりタダにしてくれたりする。
そのサーメル、奴隷並のあんまりな労働条件に耐えかね、他の宿への移籍話を何度となくほのめかしてきた。 しかし、まだ、いた。 彼の顔を見ると、ほっとするなあ。 が、彼は「今度こそ本当の本当に、ファラホテルに移るんだ、もう来週に」と言っていた。半信半疑。 が、おいらは、あんたについてどこのホテルでも行きますよー。
]]>
アキンド難民
http://sawa.exblog.jp/2613491/
2005-04-22T21:10:00+09:00
2009-05-01T09:28:09+09:00
2005-04-28T21:11:06+09:00
lusin
袖触れ合うも~
なんとか手続きを終えると、すぐにトランジットエリアの2階に行く。 いつものところに、ジョージが寝ていた。 彼はパレスチナ人だが、欧州に移民しようとしてブローカーにだまされ、モスクワにポイと放置されてしまったのだそうな。 それが3年前。 以来ずっとこの空港に住んでいる。
初めに会ったときはビニールシートを敷いて寝ていたが、2度目はどこから調達したのか、マットレスと布団を敷き、今は余分な寝袋を私のようなトランジットの旅行者に貸し出して小銭を稼いでいる。
私が行った時も、中国人に布団を貸し出す営業を熱心にしていた。 「だんなー、モスクワの夜は厳しいですぜー、だがこの毛布があれば安心だ!」と。 営業で鍛えたのか、以前より、かなり英語がうまくなっている。 中国人が「いらん」と退けると、今度は「お茶を飲んでいきませんかー、1ドルですぜ」と。 それも断られると、"Fuckin' Chinese!!" と吐き捨てていた。・・・別にあの中国人は悪くないです。 性格も、どうやら以前よりかなりよろしくなっているようで。
ジョージ寝袋は、一晩、5ドル。 一方、トランジットホテルは、約170ドル。22時間トランジットを空港で過ごすのは確かにつらいが、一晩寝るためだけのホテルに170ドル払うなどという行為は、out of the question、というやつである。
かつて、ジョージを知らないときに、このトランジットエリアのベンチで寝たことがあるのだが、あやうく凍え死ぬところだった。 2月だというのに、この空港は夜は暖房を切っていた。 今回は、ジョージから寝袋を借りて、ぐっすり寝させてもらう。
]]>
ナイロビつながり・親つながり
http://sawa.exblog.jp/2551142/
2005-04-20T01:47:00+09:00
2006-01-10T17:41:58+09:00
2005-04-20T01:48:36+09:00
lusin
袖触れ合うも~
その後、年賀状のやりとりや、たまのメールのやりとりが続いていた。 7年の間に、かつての専業の旅人は専業主婦になり、かつての大学7年生、パートタイムの旅人は、相変わらず世界をふらふらしてて、あまり進歩がなさそうだった。
ブータンに行く、とナイロビからインドへ飛んでいったKさんは、今や二人の男の子の母親になっていた。 日本でラーメンが食いたい、と、やはりナイロビから日本に向かった私は、二人の娘の父親になっている。
旅談義と、育児談義をいったりきたり。
「コンゴで、何で兵士に捕まっちゃったんだっけ?」
「うちの子、まだおねしょしてるんだけど、そっちは?」
「ブータン、行きたかったんだけど、あそこってさ・・・」
「保育所の一時預かり、もちょっとどうにかしてほしいよねえ・・・」
わけのわからない二人でした。
]]>
焼き鳥横丁・宝来家
http://sawa.exblog.jp/2613436/
2005-04-18T21:03:00+09:00
2006-01-10T17:42:12+09:00
2005-04-28T21:04:09+09:00
lusin
袖触れ合うも~
大学出たばかりのフォトグラファーのカヨちゃんは、フィリピンや、インドネシアと日本とをつなぐための様々な試みをしていて、土俵は違えど、いろいろなヒントをもらう。いやあ、若いって、ひたむきで、まっすぐで、いいですな。 大したもんだと思う。
かつてパッカーとして世界中を回り、どうやら何かしらのモノカキを目指しているらしい前ちゃんは、「以前は戦争や紛争というものに興味があったけれども、今は、何だか普段の暮らしの、身近なところに面白いものを見つけていきたい」と言っていた。 その感覚は、とても、とてもよく分かる。 私も、常日頃、そう感じている。 やっぱ、悲しみや苦しみを見るのは、とてもしんどいことだし。
なのに、どうして中東やらにわざわざ出向いて行くのだろう、とほろ酔い頭で改めて考えさせられた。 ・・たぶん、同じ「日常」でも、「遠い」世界、ちょっと日本からはなかなか想像力の及ばない世界の中にも、日本と同じような様々な「日常」があって、あたりまえの様々な「想い」がある、ということを、まず自分で確かめたい、ということだろうと思う。 なぜそうしたいか、という理屈はどうでも良く、なぜだか知らないけれども、そうしたいのだ。
やっぱり、このご時世、日々生きていくだけで何かとしんどい事はたくさんあるし、時には全て放り出して逃げ出したくもなる。 そんな中で、遠い世界の「日常」に想いを馳せる必要も余裕もないというのは、確かにその通りなのかもしれないけれど、私が確かめたいのは、その先の、「でも・・・だけどね」の世界。
大変だし、面倒くさいけれども、「でも」ちょっと試しに、想像力を働かせてみよう、と自分に言い聞かせてるような気がする。 「もし、あれが自分の子だったら」「もし、あの人が自分の恋人だったら」 と。 そこから、ひょっとしたら何かが少しずつ変わっていくかもしれない。
ところで前ちゃんは、その言葉どおり、ニヤリとさせられる日常の日記をブログで公開してます。秀逸。
「トーキョー日記」 http://blogs.dion.ne.jp/route411/
]]>
木こり志望
http://sawa.exblog.jp/2613429/
2005-04-17T21:01:00+09:00
2006-01-10T17:42:22+09:00
2005-04-28T21:02:49+09:00
lusin
袖触れ合うも~
そのヨッシーは、カナダに行く前は写真で食っていたはずだが、久々に会うと、「俺は木こりになる」、とのたまった。 冗談ではなく、今、木こりになるべく就職活動をしている。
ずっと思っていたことだが、やはり自然の中で暮らしていきたいのだそうだ。 それも、南ではなく、北がいい、しかし北過ぎず、福島あたりがいい感じ、とのこと。 よく分からんが、彼なりのこだわりがあるらしい。まあ、彼は林学科卒なので、木こりになることは、それほど不思議なことはないのだが。
相変わらず、学生時代と同じ温度で語るヨッシーの意気や、良っしー。
]]>
https://www.excite.co.jp/
https://www.exblog.jp/
https://ssl2.excite.co.jp/