カテゴリ
最新の記事
以前の記事
2011年 03月 2010年 02月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 03月 2007年 01月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 2005年 04月 フォロー中のブログ
MEDITATE ONLINE 高遠菜穂子のイラク・ホー... from ayako やんわりまったり ハムスターパゾ 今もス... ニュースの現場で考えること 写真でイスラーム 中東イベント情報 イノレコモンズのふた。 イスラムアート紀行 今日のできごと ブルーテント村とチョコレート 旅と絨毯とアフガニスタン ariphoto diary 『ウシゴコロ』 東京・高円寺カフェ&バー... リキシャで日本一周(写真... きらきらひかる 246表現者会議 ジモティーでいこう。 リンク
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2005年 08月 06日
エルサレム在住の I さん宅へ行き、昼食をご馳走になる。 大変お世話になっている日本人僧侶のG さんもいらっしゃった。いろいろとお話を伺い、I さん宅を辞した後、Gさんがエルサレム近郊の 「分離壁」 を案内してくれる。 ちょっと見ぬ間に、にょろにょろと壁は育っている。ほんと、ユダヤ人というのはやることが早いなあ。 二人でその壁沿いをてくてくと歩く。
パレスチナ人を囲い込み、隔離しようという 「アパルトヘイト・ウォール」 と呼ばれる壁が作られている、という事は 「知って」 いる。 どこをどのように壁が這っているのか、あるいはこれから作られようとしているのか、という事も、さまざまな「地図」を見て、「知って」 いる。 でも、その事実が、そこに生きる人にとって何を意味するのか、ということを思い描くことは本当に難しい。 特に、壁にまつわるエルサレム近郊の地図は複雑怪奇で、じっくり見ても、それが何を意味するのかを捉えることは容易ではない。 そして、この高さ7,8メートルはあろう壁の際を歩いていると、この壁建設を推し進める人々の心の中にある 「何ものか」 に対して、改めて空恐ろしさを感じる。 「それ」は、彼らだけでなく、きっとほとんどの人の心の中で息を潜めていて、何かの拍子で目を覚ましかねないものだろうから。 しばらく歩いた後、現在建設中の、パレスチナ人のための 「ゲート」 にやってくる。 今は普通にエルサレムにやって来れている人々も、壁が完成すれば、完全に「向こう側の人」 の烙印を押され、エルサレムに来るにはこのゲートを通り、「チェック」を受けなくてはいけなくなる。 軍事力にモノをいわせ、人々の土地を奪い、彼らをゲットーに押し込める壁が、伸び続けている。 この壁に関しては、日本はともかくとして、欧米の国々ではそれなりの量の報道がなされている。 そのような衆人環視の下で、そして国際司法裁判所の、建設中止を求める勧告の後ですら、さらには、アラファト後の、いわゆる「和平交渉」 の最中にすら・・・ この壁はちゃくちゃくと伸び続けていて、国際社会というものの無力さの目に見える象徴になっている。 いつか、この壁が崩れる日がくるのだろうか? くると信じたいけれど、それはどのような手段によるものだろうかなあ・・・。 #
by lusin
| 2005-08-06 21:25
| パレスチナ/イスラエル
2005年 08月 06日
2005年 08月 06日
2005年 08月 05日
成田発、ソウル・バンコク経由でテルアビブへ。
いつもの通り、ダントツに安いロシアの航空会社・アエロフロートでの、「モスクワ経由・アンマンイン、陸路でのイスラエル入国」 を最初は考えたのだけれども、またしても直前まで出発日が決まらなかったので、このチケットは取れず。 で、仕方なしに選択した今回のルートだが、ちょっと割高ではあるけれど、これが結果的に大正解。 まず、乗り継ぎが非常によい。 トランジット空港が快適。 空路でのイスラエル入国は、陸路での入国と比べると、10倍は楽。 そして何よりも、経由地のメシがうまい。 トランジット中に、ソウルではキムチ炒めごはんを、バンコクではトムヤムクンを食べる。最高。 モスクワでの苦難の20時間耐久トランジットを思うと、VIPツアーのような快適さであった。 到着時の精神的・肉体的な状態と、所要時間を考えると、激安ルートよりもこれからはこっちを選ぶべきか・・・いや、若いうちから自分を甘やかしてはいかんかな・・・。 バンコク支局のSさんが空港で出迎えてくれる。 チケットを受けとり、おみやげのタバコを渡す。 Sさんはタイ人なのに、タイのタバコは吸わない。しかも、タイ料理も食べられないという変わった人だ。 帰路で時間があれば、今度は夜のバンコクを案内してくれるとのこと。 バンコクからは、イスラエルの航空会社、エルアルで行ったのだけれど、のんびりムードのタイにあって、エルアルのチェックインカウンターのみが、厳重なセキュリティーチェックをしていて、ちょっと異様であった。 目つきの鋭いイスラエル人の係官と、大らかなタイ人アシスタントのコンビのミスマッチが可笑しい。 まずは、アシスタントのタイ人女性スタッフによるインタビュー。 「何をしにイスラエルに行くんですか?」 「取材です。」 「何を取材するの?」 「ガザからの入植地撤退(disengagement)など。」 「disengagement って、何?」 分からんらしく、ボスのイスラエル人スタッフに聞きに行ってしまった。 こんな人間に「取調べ」をやらせるな。 雇い主の国の、歴史的重大事を知らんとは。 まあ、ここはタイだし、かわいいからいいけれど。 飛行機は、夜中の1時にバンコクを発った。私はすぐに眠りこけてしまい、朝、目を覚ますと7時前、テルアビブ到着直前だった。 何と快適な。 しかも、空港に着いてから、入国審査、預け荷物の受け取り等済ませ、空港を出るまでわずか30分。 スムースすぎてちょっと気味が悪い。 その足で、プレスカードを取りにプレスオフィスへ。 ・・・が、金曜日の今日、土曜日の明日はオフィスは休みであった。ガーン。 今日の午前はやってると思ったのだけれど。 まあ、今日、明日とのんびりするか。 #
by lusin
| 2005-08-05 21:05
| パレスチナ/イスラエル
2005年 07月 29日
本屋で、ふと目に留まった本があり、迷わず買う。 鶴見良行さんの 「歩きながら考える」 という本だ。 今は亡き鶴見さんは、日本のアジア学の開拓者、泰斗であり、市井の学者であった。 主に海洋アジアを、まさに「歩きながら」、その土地の暮らし、日本との関わりを真摯に考えてきた人だ。 「バナナと日本人」「ナマコの眼」などの不朽の名著を残している。
実は私は、もう20年以上前に鶴見さんとお会いしている。 私が小学校4年生の時、教室に鶴見さんがやってきたのだ。 担任であった先生と鶴見さんが個人的に知り合いで、「バナナと日本人」の授業をするために訪ねてきてくれたのだ。 今でもよく覚えている。 ある日突然、一見さえないおっさんが、たくさんのバナナを抱えて教室に現れ、にこにこしながら話してくれたことを。 そのバナナがどこから来たのか。 それが作られたフィリピンとはどんなところなのか。 どんな人たちがそのバナナを作ったのか。 彼らがどのような暮らしをしているのか。 鶴見さんはバナナを配り、私達はそれをうまいうまいと言って食べた。 そのバナナが作られたフィリピンを想像しながら。 そして、鶴見さんは話をつづける。 日本に「きれいな」バナナを輸出するために、彼らがどのような苦労をしているのか。 にもかかわらず、どれほど貧しい暮らしをしているのか。 日本にいる私たちと、フィリピンのバナナ農家の人たちが、どのようにつながっているのか。 スライド写真を見せながら、10歳の子供に届く言葉で話してくれた。 今でも、不思議なほどに、その授業を鮮明に思い出せる。 大学の講義など、ほとんど記憶に残っていないのだが、子供の頃の記憶というのは、全くもってあなどれない。 その後、中学、高校と進み、楽しいことで頭が一杯の日々を過ごす中、その記憶は心の奥深く沈んでしまっていたけれど、大学に入り、さあ、とあれこれ考え始めると、鶴見さんの授業の記憶が、ポコポコと浮かんできた。 そして、その記憶は、知らず知らずのうちに自分の行動に強い影響を与えてきたように思う。 不思議なものだ。 ちなみに、このときの授業の様子は鶴見さんの「アジアの歩き方」(ちくま文庫)という本に掲載されている。 子供たち(自分たちのことだが)の率直な反応が、とても興味深い。 もちろん当時は分からなかったけれども、今読むと、調査者としてのみでなく、伝え手としての鶴見さんの見事な力量がよく分かる。 そして私は、鶴見さんと同様、当時の担任であった鳥山敏子先生からは、計り知れない影響を受けている。 鳥山クラスでは、教室で、皆で蚕を飼っていた。 私たちは毎朝、近所の桑の木の葉っぱを取りに行っていた。 お蚕さまは、やがて繭をつくり、私達は教室で糸をつむいだ。 授業ではしばしば、けっこうな時間を割き、皆で演劇をした。 生徒の親を教室に招き、仕事の話をしてもらった。 先生は宮沢賢治が大好きで、教科書に載っていない賢治の作品をよく読み、そしてそれを絵に描いた。 その中でも特に、「よだかの星」を読んだ時の、子供ながらに感じた何とも言えぬ切なさは忘れられない。 原子と分子のしくみ、原発についても学んだ。 戦争に関する授業もあった。 そのような中で、鶴見さんの授業があったのだ。 先生は、とにかくよく生徒に問いかけ、考えさせ、想像させた。 そして、常にそれを言葉にさせた。 「山の声を聞いてみよう」 という授業もあり、それを一生懸命想像して、文章にしたこともあった。 今思えば、笑ってしまうほどにカリキュラム無視の、すさまじい授業だ。 今のご時世、公立学校ではまず不可能だろう、というか、当時もよく許されたものだ。 もちろん、先生は先生で、そのような授業をするために各方面とたたかっていたのは想像に難くない。「そんなことより『学力』を!」 と要求するお母さま方も少なくなかったことだろう。 けれど、やっぱりこういう授業が、深く深く記憶に刻まれているのだよなあ。 当然、そのような授業をすることで「正規の」カリキュラムの時間は削られるのだけれど、不思議なことに、皆、とくに「学力」に困っていたようにも見えなかった。 先生は、今はシュタイナー教育に根ざした「賢治の学校」 という自主学校を主宰している。 やはり、現行の学校制度の中では、先生の信じる教育を続けていくのに限界を感じたのだろう。 今思えば、先生の授業はまさにシュタイナーの教育観に根ざした授業であった。 シュタイナー教育の方法論が、日本の土壌にどのように受け入れられるのか、ということはまた別問題だし、私もシュタイナーの思想に対して明確な立場を持っているわけではないけれども、ああいう授業であれば、学校はもっと楽しい場所になることは請け合いだ。 そして、1年間とはいえ、あの授業を受けられたことを、私はとても幸運なことだと思っている。 #
by lusin
| 2005-07-29 14:34
| 見た食った読んだ
|
ファン申請 |
||