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2008年 03月 16日
___________________________________________________________ パレスチナ・ヨルダン川西岸のヘブロン近郊で生まれ育ったバッサム(39)は、13歳のときから、占領に対する闘争に参加した。パレスチナ旗を掲げてデモに加わり、イスラエル軍に投石した。「武装して村にやって来る奴らに抵抗するのは当然だ」 と思っていた。 17歳のとき逮捕、投獄され、ヘブロンにあるイスラエルの刑務所で7年を過ごす。獄中でホロコースト(ナチスによるユダヤ人虐殺) の映画を観て、ユダヤ人の悲劇を知った。それまで常に敵だった人々に、初めて共感した。そして彼は、看守の一人と対話を重ねる。 ユダヤ人入植地に住み、パレスチナ人を 「テロリスト」 としてしか見ていなかったその看守は、バッサムと話すうち、パレスチナ人もこの地で生きる権利があることに同意した。 二人の間には友情のようなものすら生まれた。 バッサムは 「対話を通して、敵が仲間になり得る」 ことを、監獄で身をもって経験した。 24歳で釈放されて以後、彼が武装闘争に関わることはなかった。 ※ ※ ※ 2005年、6人の子の父親となっていたバッサムは、 「元イスラエル兵との対話」 に誘われる。 翌年のCFPの結成につながる、最初の会合だった。会場には、バッサムを含めパレスチナの元戦闘員4人と、イスラエルの元兵士7人が座った。だがその空間は、不信と疑念に満ちていた。バッサムは相手をイスラエルの秘密警察ではないかと疑った。 「話をした後で拘束されるんじゃないか」。 一方、イスラエルの元兵士たちも 「これは罠で、誘拐され、殺されるのではないか」 と恐れていた。 イスラエル人のCFPメンバー、イタマル(27)は、最初に参加した会合を 「まるで犬が相手の臭いを嗅ぎ合っているようだった」 と振り返る。兵役で多くの軍事行動に携わった彼自身、「武器を持たずにパレスチナへ行くのも、同じ人間としてパレスチナ人と向き合うのも、初めてだった」。 しかし、集会を重ね、それぞれの経験が率直に語られるにつれ、不信感は薄らいだ。バッサムは、元イスラエル兵が 「自分がしたことは、テロと同じだった」 と語った言葉に深く揺さぶられた。 初めて聞く 「反対側の物語」 だった。 CFPが発足して間もない2006年7月、レバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラをイスラエルが攻撃、レバノン戦争が始まった。イタマルは予備役兵として召集を受けた。 「これはパレスチナ占領のための軍務とは違う」 と考えつつ、召集に応じるかどうか迷った彼は、バッサムに電話する。 周囲は「パレスチナ人に相談するなんて」 と驚いた。だが、かつてイタマルが不信と恐れの目で見た相手は、今や深く信頼する友人となっていた。イタマルは結局、召集を拒否した。 ※ ※ ※ イタマルが、パレスチナ人から何度も言われてきた言葉がある。 「CFPの君たちは確かに、武器を捨て平和を求める良きイスラエル人だろう。だが、君たちの政府や軍は依然として我々を占領し、空爆し、殺し続けている」。 その厳然たる事実を再び突き付けられる出来事が起こる。2007年1月、バッサムの娘アビールが小学校からの帰途、イスラエルの国境警察が放ったとみられる銃弾で瀕死の重傷を負ったのだ。十歳の少女は人工呼吸器につながれた。イタマルは、すぐ病院にかけつけた。しかし、彼にできることは、バッサムのそばにいることだけだった。 バッサムは毅然と振る舞い、憎しみや復讐を口にすることはなかった。 「これまで語ってきた、非暴力の対話への信念が本物かどうかが試されている」 と彼は言った。 二日後、アビールは意識を回復しないまま、十年の短い人生を閉じた。 イタマルは自問した。 「占領と紛争が続く中での非暴力の対話。今まで、この活動は成功していると思っていた」。だが、自国の軍は、平和を求めるパレスチナの友人の娘を奪った。これからも同じことは起き続けるだろう。 イタマルは 「時に絶望しそうになる」 と言う。 「しかし、希望なしには、平和のために行動する理由も失われる」。 その思いはバッサムも同じだ。 身を切られるような痛みを抱えつつ、彼は訴える。 「暴力ではなく対話を。 パレスチナとイスラエル双方の、我々の子供たちを守るために」 と。 彼らの、かすかな希望をつなぐ対話は、今も続けられている。 ( 大月啓介 / 信濃毎日新聞 2008年2月13日掲載 )
by lusin
| 2008-03-16 16:00
| パレスチナ/イスラエル
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