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2008年 03月 11日
※写真 アパートの部屋で「僕が希望をなくせば、妹の死は無意味になる」 と語るエリック =2006年10月、イスラエル・テルアビブ (撮影 大月啓介) ___________________________________________________________ 2006年10月、パレスチナ・ヨルダン川西岸の村ビリンに、イスラエルとパレスチナから数十人が集まった。男性が大半だが、イスラエル側にはわずかに女性も見える。「軍にいたとき、パレスチナ人の家を破壊した。ひどいことをした」 「自分は闘争のなかで育った。投獄もされた。出獄すると自爆に惹かれた」。かつて銃を向け合ったイスラエルの元兵士とパレスチナの元戦闘員たちが車座になり、思いを吐露する。この年4月に発足したCFP (Combatant for Peace, 平和のための戦闘員) が開いた対話集会だ。 その輪のなかにイスラエル人のメンバー、エリックの姿があった。 ※ ※ ※ 1995年、18歳で徴兵されたエリックは、志願して特殊部隊で軍務に就いた。2年後、レバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラに対する軍事作戦に加われなかったときのことを、彼はこう語る。「兵士として標的を仕留めること以上の望みなどなかった。ついにその日がきたのに、自分は現場にいない。悔しくて涙が出た」。 この作戦で11人の「テロリスト」 を殺害したと知り、悔しさはさらに増した。「自分はイスラエル市民を守り、国境を守っていると信じていた」。 しかし、レバノンでの作戦の後、ミサイルによる報復攻撃でイスラエル市民が傷ついた。軍事作戦で同僚兵士がレバノンの子供や老人を殺害したことも知った。エリックは、徐々に “語られる物語” と現実との差を感じ始める。 「もし我々が行動をやめれば、報復もやむのではないか」。 かすかな疑問が湧いた。 その翌日、エリックの生き方を決定的に変える出来事が起こる。 その日、パレスチナの男3人がエルサレムの繁華街にやって来た。 観光客や市民でにぎわう通りで、男たちは続けざまに自爆した。 男3人を含め7人が死亡、180人が負傷した。 友達と遊びに来ていたイスラエルの14歳の少女が、不運にも自爆犯のそばにいて、犠牲になった。 エリックの妹だった。 「怒りに任せて復讐したい思いにかられた」 と彼は言う。 しかし、一体誰を殺せばいいのか。妹を殺した者はすでに死んでいる。 「パレスチナ人なら誰でもいい? いくつの死体となら妹の死と引き換えにできる? 一つの死体? 十の死体?・・・」。 エリックは思った。 「こんな取引きはまともじゃない。 妹の死を踏みにじるだけだ」 部隊の上官は彼に言った。 「今、レバノンで大きな作戦を計画している。 テロリストと出くわすかもしれない。 仇(かたき) 討ちができるぞ」。 パレスチナ人の自爆犯への復讐を、レバノンの人間に対して実行すればいいというのだ。 「パレスチナ人もレバノン人も、奴らはみんな敵だ。 同じことだ」 と。 エリックはそのとき、「いかに状況が狂っているか、はっきり分かった」 と語る。 「そこに落ちていきたくないと思った。 僕は妹を失ったが、自分の頭や心まで失ったわけじゃない」。 そして彼は、「ここで踏みとどまる」 ことを決心した。 ※ ※ ※ その後、エリックはイスラエル軍の一切の軍事行動に関わるのをやめた。 「自分たちは防衛しているのではなく、危険を生み出している」。かつてかすかに感じた疑問は、確信となっていた。 「妹はユダヤ人で、イスラエル人で、ここで暮らしていたから殺された。 この地の政治状況の一部として殺された。 そして、その死と遺族の痛みは利用され続けている。 パレスチナへの分離壁の建設や暗殺作戦や道路封鎖を正当化するために」。深い喪失感のなかで、なぜ妹は死んだのかと問い続けたエリックは、そう思い至る。 「彼らが僕たちの悲劇を悪用するのなら、僕はそれを別の目的のために使おう」 と考えるようになった彼は、やがてCFPに出会った。「それはまさに、僕が求めていた活動だった」。 エリックは言う。 「妹の死を、他の人々の更なる苦難の理由にしたくない。 人を踏みつけるためではなく、希望につなげるための存在として、彼女を記憶してもらいたい。 だから僕は、銃を手にパレスチナへは行かない。 対話のために、その境界を越えていく」。 ( 大月啓介 / 信濃毎日新聞 2008年2月6日掲載 )
by lusin
| 2008-03-11 17:19
| パレスチナ/イスラエル
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