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2007年 08月 28日
ガザ地区北部の町、ベイトハヌーン。アムジャド(35)は虚ろな表情で、廃墟となった家の中へ私を案内した。部屋の壁は崩れ落ち、床には瓦礫(がれき)にまじって衣服や本が散乱している。
「これは息子の制服・・・これは教科書・・・。彼はまだ10歳だったんだ・・・」。2006年11月、アムジャドの家族を含めた22人がイスラエル軍の「誤爆」によって命を落としてから、3日後のことだ。前年9月にイスラエルがガザ地区から「撤退」し、ガザの人々はイスラエル軍の攻撃から自由な暮らしを夢見た。だが、撤退など無かったかのごとく、イスラエル軍は再びガザを襲った。ベイトハヌーンは「誤爆」の二日前まで、軍事侵攻に晒(さら)されていた。攻撃が収まり、住民がほっと一息ついた矢先に、悲劇は起きた。 イスラエルのメディアはこれを大きく取り上げ、その中には軍への厳しい批判も見られた。オルメルト首相は「誤爆」による民間人殺害に関する軍の過失を認め、遺憾の意を表明した。異例のことだ。しかし彼は、今後も同様の悲劇は起こり得るとし、パレスチナ人容疑者への攻撃は続く、と付け加えた。 「誤爆」の原因は、後の軍内部の調査で、レーダーの故障による「技術的な失敗」とされた。本来の標的は、イスラエルへ攻撃を仕掛けたガザの戦闘員が潜んでいたオレンジ畑だった、とも伝えられた。 ※ ※ ※ パレスチナの民間人の犠牲は、これ以前も、以降も、繰り返し起きている。第二次インティファーダ(イスラエルの占領に対するパレスチナ民衆の蜂起)が始まった2000年9月以降、イスラエル軍に殺害されたパレスチナ人約4000人のうち、少なく見ても半数は非武装の民間人である。しかし、あたかも「正しい言い訳」さえあれば問題ないかのように、さまざまな言葉で正当化され、耳目を集めることは極めて稀(まれ)だ。 今回も、仮に犠牲者の中に一人でも、イスラエルによって「テロリスト」のお墨付きを与えられたパレスチナ人がいれば、その他の犠牲者は「付随的被害」とされたに違いない。それは、テロと戦うために「受け入れなくてはならないコスト」だと。あるいはもし22人が一度に犠牲になっていなければ、「通常の軍事行動」として見過ごされていただろう。一人ずつ殺されることと、一度に殺されること、その死自体には何も違いがないとしても。 ※ ※ ※ 11発の砲弾がアムジャドの家とその周辺を襲ったのは早朝6時半。犠牲者の多くは爆音に眠りを破られ、無我夢中で逃げ惑う中で犠牲になった。アムジャドの息子もそうだった。 「息子が逃げようとここまで来た時、砲弾が直撃して、彼は肉片になって、散らばった。バラバラになって、通りに飛び散ったんだ・・・」。アムジャドの声は、やがて嗚咽(おえつ)に変わった。「俺は、その肉片をバケツに集めた。バケツに集めたんだ、バケツに・・・」 狂わんばかりのアムジャドの姿と、非武装の住民の死を「技術的失敗」と表現するイスラエル軍の空疎な物言い。「殺す側」と「殺される側」の間にある、計り知れない隔たりを思う。アムジャドの息子の死は、「テロとの戦い」の名の下に起きている無数の出来事のひとつにすぎない。 私は途方に暮れ、やがてある問いにとらわれる。「ならば私自身は、一体どこに立っているのか」。たとえ、殺される側の現場で胸をかきむしられようが、結局は私も、彼らの死を「仕方ない」で済ますことが可能な場所から、それを眺めているだけなのかもしれない。しかし、だからこそ私は問い続けたいと思う。彼らの死と、この私はどう向き合うのか、と。 (大月啓介 / 信濃毎日新聞 2007年6月13日掲載) ※写真 イスラエル軍の「誤爆」で死亡した子供を抱きかかえる父親=2006年11月9日、ガザ地区ベイトハヌーン
by lusin
| 2007-08-28 11:00
| パレスチナ/イスラエル
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