カテゴリ
最新の記事
以前の記事
2011年 03月 2010年 02月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 03月 2007年 01月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 2005年 04月 フォロー中のブログ
MEDITATE ONLINE 高遠菜穂子のイラク・ホー... from ayako やんわりまったり ハムスターパゾ 今もス... ニュースの現場で考えること 写真でイスラーム 中東イベント情報 イノレコモンズのふた。 イスラムアート紀行 今日のできごと ブルーテント村とチョコレート 旅と絨毯とアフガニスタン ariphoto diary 『ウシゴコロ』 東京・高円寺カフェ&バー... リキシャで日本一周(写真... きらきらひかる 246表現者会議 ジモティーでいこう。 リンク
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2007年 08月 14日
パレスチナ自治区のガザ地区から、ユダヤ人入植地が 「撤退」 する前年の2004年。ガザ地区南部の街ラファで、私はある父親の言葉を聞いていた。
ラファは、2000年の第二次インティファーダ(イスラエルの占領に対するパレスチナ民衆の蜂起)以来、何度となく、イスラエル軍による激しい攻撃にさらされてきた。そして、子供や女性を含む多くの住民の命が奪われた。彼の娘イマンも、その一人だった。 ※ ※ ※ 「その日は、早朝にイスラエル軍の監視塔から激しい銃撃がありましたが、それ以外はいたって普通の日でした」 と父親のサミール(57)は語り始めた。 「私はイマンに、学校を休んで家にいなさいと言いました。でも、しばらくすると銃撃が止んだので、通学を許しました。もしあのまま銃撃が続いていたら、学校は休ませていたのですが・・・」 2004年10月5日。イスラエル軍によるガザへの大規模な軍事侵攻が始まって間もなかったその日、家を出たイマンは、わずか数百メートルほど先の小学校へ向かう途上、イスラエル軍の監視塔から銃撃された。 その後、部隊の指揮官はイマンに近寄ると、瀕死の彼女に向けて弾倉が空になるまで銃弾を撃ち込んだ。イマンは、頭部への5発を含め、全身に20発以上の弾丸を受けて死亡した。事件が公になった当初、軍はイマンが通学用のかばんに爆発物を入れていると主張したが、かばんからは教科書しか出てこなかった。 イスラエル軍が無差別の銃撃を繰り返す監視塔は、パレスチナの人々にとって、軍事占領の恐怖の象徴だった。しかし同時にそれは、ガザの “日常” でもあった。亡くなったイマンにとっても。 「夜に銃撃があると、とても怖がって、妹と一緒にずっと起きていることもありました。けれども、ほかのパレスチナの子供たちと同じように、占領という言葉は、イマンにとって日常の言葉でした」 とサミールは言った。 「イマンが小学校2年生の時にインティファーダが始まったので、何が起きても、彼女はそれが当たり前だと思っていたでしょう。ガザは危険な場所ですが、他に移り住むことは考えませんでした。ここに住むのが、ここで生まれた彼女にとって自然なことでした」 ガザの 「外の世界」 のことを、イマンはテレビを通して知るだけだった。「あまり悲惨な出来事を伝えるニュースは、子供たちには見せなかった」 とサミールは言う。 テレビを通して見る、銃撃も侵攻もない世界。 その「あまりにも遠い世界」 に憧(あこが)れる気持ちを、イマンが少しずつ持ち始めていたように、サミールには思えた。 だがイマンは、銃撃や侵攻のない世界を一度もその目で見ることなく、13歳でこの世を去った。 イマンは 「お父さんのように学校の先生になりたい」 と話してもいたという。 「彼女には、私より良い人生を送ってほしい、自分が子供時代に得られなかったものを味わってほしいと、いつも願っていました。 しかし、運命はそれを許しませんでした」 とサミールは語った。 ※ ※ ※ イマンに銃弾を撃ち込んだ指揮官は、殺人罪ではなく、偽証罪と、死体に銃弾を撃ち込んだことによる 「武器の不正使用」 で、イスラエルの軍警察に起訴された。 法廷で指揮官は、無抵抗で地面に横たわる瀕死のイマンを 「重大な脅威」 と確信していたと主張した。 翌2005年、軍の裁判所が彼に下した判決は 「無罪」 であった。 2000年以来、パレスチナでは800人以上の子供たちが犠牲になり、その数は今も増え続けている。 (大月啓介 / 信濃毎日新聞 2007年6月6日掲載) ※写真 ラファの街には、イスラエル軍の銃撃で亡くなったイマンの 「殉教者ポスター」 が貼られていた。 =2004年12月、ガザ地区ラファ
by lusin
| 2007-08-14 01:13
| パレスチナ/イスラエル
|
ファン申請 |
||