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2006年 08月 09日
知人のブログを見たら、私が前回書いた日記と関係する記述があった。タイトルは、「銃撃戦ではなく、爆撃で8人殺される」
その記事の中で、筆者は、(日本の新聞の記事の?)「銃撃戦」 という表現に疑問を呈していた。確かに、一方的なあの虐殺に 「銃撃戦」 という表記はちょっとないよなあ、と思う。 私自身も、「銃撃戦」という表現に関しては、(しょっちゅうだけど)特に気になった経験がある。 それは、私の助手が撃たれた件が、ある日本の新聞に載った際の、「邦人フリー記者、ガザで銃撃戦に巻き込まれ軽傷」 という見出しに関してだ。 あの出来事は、以前にも書いたが、明らかにイスラエル軍のスナイパーによる「狙撃」であって、とても 「銃撃戦に巻き込まれる」 などと表現できるものではなかった。少なくとも、パレスチナ側からの攻撃は、私が現場にいた限りでは、皆無であった。 その記事のことをパレスチナ人に話したら、あきれ返っていた。「つまりは、イスラエル兵に撃たれたか、パレスチナ人に撃たれたか分からないということか?」 と。 まあ、そういうことになる。そして当然ながら、それを読む日本の読者もそう受け取り、「相変わらず、よくパレスチナのことは分からんが、依然、ドンパチやってて、どっちもどっちなんだろう」 という見方を固めていくことになるのかもしれない。 つくづく、ささいな表現が、どれほど人の認識を大きく左右するだろうか、と考える。 日本の新聞とパレスチナ報道に関しては、もう一つ、個人的にとても印象に残っている経験がある。ある記者の方と話していたときのこと。イスラエルがパレスチナの中に、網の目のように張り巡らせている「スパイ網」 の話になった。 「ひどい話ですよね」 と私は言った。そして、そのとき私は、あの手この手でそのような網を広げ、結果的にパレスチナを密告社会にし、内側からも崩していくことになる、イスラエルの戦略のことを言ったつもりだった。そして、その特派員の方も、「ほんとにひどい話ですよね」 と言った。そしてその後、こう続けた。「パレスチナ人ってのは、そんなに自分の身がかわいいんですかね」 一瞬、意図がつかめなかったけれど、つまり、その方が言っていたのは、「自分の利益・保身のために仲間を売るパレスチナ人は、なんと卑しい人たちか」 ということであった。 ・・・そうか、そういう見方もあるのか、と新鮮な驚きを持ったものだ。 同じくパレスチナを取材対象としていても、こうも見え方が違うものか、と。 でも、その時、「この人は、その現象の背景を知った上で、そう言っているのだろうか?」 と、少し疑問を感じたのも事実だ。 彼らが、大きなリスクを冒してまで(発覚すると、多くの場合、同じパレスチナ人によって処刑される)、どうしてそのような仕事に手を染めるようになったのか、彼らをスパイに仕立て上げるために、イスラエルによってどのような過酷な手段が使われているのかを。それらを知った上で、内通者にまつわるパレスチナ人の「卑しさ」 を語るのであれば、それはそれで、継ぐ言葉はないけれど。 まあ、「立ち位置の違い」と言ってしまえば、それまでのことなのかもしれない。 私は、どっぷりと 「パレスチナの側から」 ・・・脅迫や、暴力によって、そのような仕事に加担させられ、社会を崩される側からその出来事を見ていて (もちろん、自ら進んで手を染める者が皆無と言い切るつもりは全くない)、そして、その特派員の方の視点は、圧倒的な力を持ち、内通者を「雇い入れる側」 に都合の良いものの見方、と言っていいかもしれない。そして、先の「銃撃戦」 という表現も、「侵攻する側」 にとってきわめて都合がいい。 それは、「交戦」なのだ。 そこでは、民間人、女性、子供が、空から降ってくるミサイルによって 「一方的に」 殺されている、という事実は、煙に巻かれてしまう。 そのような表現は、「侵攻され、殺される」側からすれば、「ふざけるな!!」 ということになる。今の私も、そう感じる。そして、日本の報道は、理由は分からないけれど、どうも 「侵攻する側」 に立った見方をすることが多いように思う。 そのどちらの見え方が絶対的に 「正しい」 ということは言えないのかもしれない。「侵攻し、殺す側」 が、「だって、中には武装勢力のメンバーだって少しはいたでしょう? そして、発砲だってしていたでしょう」 と言えば、それは「彼らの理屈によれば」、立派な「交戦」に仕立て上げることはできるだろう。そして、彼らはひょっとしたら、本当にそう信じているのかもしれない。 たとえパレスチナ側の武力が、イスラエルの圧倒的な軍事力と比べると、おもちゃのような代物だったとしても。 そして、「殺される側」 からすれば、それはあまりにささやかな 「防衛」 であったとしても。 これは幸か不幸か分からないが、それぞれの立ち位置からは、それぞれの違った世界が見える、いや、違った世界を見るしかない、ということなのかもしれない。・・・が、もっとも、そのことと、「最低限、共有するべき事実」 をメディアがあいまいにするということは、また別の問題だ。その最低ラインの事実の共有なしに、視点もへったくれもない。 その上で、だけれども。 私は、自分が今、どこに立っていて、その場所から、どのような色のメガネを通して出来事を見ているのか・・・ということに対して、常に、可能なかぎり自覚的でありたいと思っている。さらにその上で、私は、「正しさ」よりは、そのようにして 「自分の目に映った世界」 が、どんなものであるのか、ある人の目にはどんな世界が映っているのか、ということの方に興味がある。ちょっと語弊があるかもしれないけれど。 そして、公正中立、客観報道を旨とする(旨としないところもあるが)日本のマスメディアが、どこから、何色のメガネをかけて世界を見ているか、をどう 「自覚」 しているのかは、パレスチナ報道に関して言えば、 私にはあまりよくは分からない。色のついたメガネなどかけていない、と言うのであれば、それはそれで、とても困ったことだとも思うけれど、もし仮に、本当にそういうものの見方があるのだとしたら、それもそれで、とても興味はある。
by lusin
| 2006-08-09 00:51
| パレスチナ/イスラエル
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