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2005年 10月 08日
小さな後悔をあげたらきりがないけれど、友人のMには、今までの31年間の人生の中で、特に悔やんでも悔やみきれないことが二つある。
もう10年以上前、18歳のときのこと。 サッカーのガザ・ユース代表のメンバーであったMは、ノルウェーで行われる大会に出場することになっていた。 ガザの代表として国際大会に参加するということは、もちろん嬉しかったけれど、それよりも、初めてヨーロッパの国に行けることの方がMには嬉しかった。さらには、大会後に企んでいる「あること」の方が、より彼を興奮させていた。 しかし、カイロへ向かうために通過しなくてはいけないガザーエジプト国境で、Mはイスラエルの係官から、「通行は認めない」旨を言い渡される。心当たりは全くない。「単なる」嫌がらせに過ぎないのは明らかだった。 他の代表メンバーたちは、カイロに向かってゲートを越えて行った。 納得がいかないけれど、交渉の余地などあるはずがなかった。イスラエル側の言うことは絶対であった。その足で、Mは家に戻るしかなかった。M抜きのガザ代表は、3試合のうち2試合に勝利するという健闘をみせたが、ガザでその知らせを聞いたMは、当然ながらそれを素直に喜ぶことはできなかった。 「あの時、大会に出ることができていれば・・・今頃、俺はここガザで肉屋の主人なんかしていなかったはずだ。もっと別の人生を送っていたはずだ。 なぜなら、大会が終わった後、そのまま姿をくらまし、ノルウェーに居座り続けるつもりだったから。 そして、ガザには戻ってくるつもりはなかったから。」 その翌年、Mは親戚のつてを頼って、ウクライナに留学した。 大学のある町は、なかなか住み心地もよく、ロシア語の勉強も、はじめこそ気が狂いそうだったけれど、だんだん面白くなってきた。たまげるほど女性がきれいだったのも、嬉しかった。 あえて難を言えば、少々寒いのがこたえたけれど、そんなことは、ここで語学を学んで通訳になるという目標と比べれば、取るに足らないことだった。しかし、大学での1年目が終わるころ、Mのもとに、ガザの父親から連絡が来た。「もうこれ以上仕送りはできない。ガザに、戻ってくること。」 それは、イスラエルに出稼ぎに出ていた父親に、イスラエルでの労働許可が下りなくなったためだった。 その決定には、やはり父親も思い当たるふしは全くなかったけれど、全てを決めるのは、イスラエル側だった。文句を言っても覆るはずはなかった。父親はやむなくガザでの仕事をはじめたが、イスラエルと比べると、その収入は一ケタ落ち、とても外国の息子に仕送りできる状態ではなくなってしまった。 そうして仕方なしにガザに戻ったMは、その後、結婚、離婚、再婚を経て、今は二児の父になっている。 肉屋の収入で、食っていくにはさほど困らない。再婚相手の奥さんとの仲は良好だ。 生まれたばかりの二人目の男の子は、目に入れても痛くないほどにかわいい。 周囲からは、そう悪い生活ではないようにも見える。でも、Mはいつもぼんやりと、考えている。 「ずっと、自分は何かを待ち続けているような気がするんだけど、自分でも、ここガザで一体何を待ってるんだか、さっぱりわからないんだ。 たまに、自分が何者だか、まるで分からなくなるんだ・・・。」 ちょうどMがウクライナにいる頃、1993年のオスロ合意にもとづく、パレスチナとイスラエルの和平プロセスが始まった。将来に対する希望が、ガザには満ち満ちていた。イスラエル兵が町から去り、国外に離散していたPLOのメンバーたちが、大挙してガザに帰還してきた。 住民は、熱狂的に彼らを迎えた。自治政府の警官たちは、世界で唯一、住民に好かれている警察とまで言われた。ガザには、ばら色の未来が広がっていた。 けれど、次第に自治政府への信頼が揺らぎ始めた。その汚職体質が誰の目にも明らかになってきた。 持てる者と持たざる者の格差が広がり、ガザの社会には不信が蔓延し始めた。そして、そのことによる犠牲のひとつが、かつてガザの社会を支えていた相互扶助の精神であった。 さらに、2000年、第二次インティファーダが勃発し、再びガザは、コーランに書かれているように、ユダヤとアラブの「戦争の地」となった。イスラエル軍によって家が壊され、農地が潰され、木々が引き抜かれた。道路が封鎖された。そして、再び死傷者の数が、積み重なっていった。 そのインティファーダが始まってから5年目の今年、ガザからのユダヤ人入植地の撤退が行われた。占領と闘争にはほとほと疲れていた人々は、もちろんそれを歓迎した。 けれど、Mはそれをとりたてて喜ぶ気にもなれない。 ガザからイスラエルの入植者と兵士が去ったからといって、物心ともにボロボロになったガザの状況に、さしたる変化が起きないのは、撤退前から彼には分かっていた。 しかし、撤退後、息つく間もなく、ガザでのイスラエル・パレスチナ双方からの攻撃を目にして、Mはもう、呆れ果てて驚くこともできなかった。 「どっちが先に手を出した」 ということは、もうMにとってはどうでもいいことだった。とにかく、Mはもう、ここで起きている全てにうんざりしていた。依然として我が物顔で上空を飛んでいるイスラエルのF16戦闘機にも、声をからして聖戦を叫ぶ武装組織の面子にも、生きるために我がことのみを考えるようになった人々にも。 そしてある日、Mは今まで漠然と考えていたことを、実行に移すことを決心した。「ガザを出よう。」 「まずは、勝手知ったるウクライナに行く。そこから、何とかしてスウェーデンまでたどり着く。そして、これが大事なのだが、スウェーデンにつく前に、パスポートをしっかり紛失させておく。そうしないと、うまくいかないと聞いている。そして、難民申請をする。パレスチナ、イスラエルの双方に調べが入るらしいけれど、あの国でなら、まず受け入れられるだろう。そして、それに成功した友人たちは、今、スウェーデンで、文化的な暮らし・・・「普通の、まともな生活」ということだけれど、とにかく皆、本当に幸せだと言っている。 俺も、ここを出なくてはいけない。 あっち側に、行かなくてはいけない。」 自分は臆病者だから武装闘争には絶対参加できない、とアラブの男としてはあるまじき発言を、笑いながらすることができる率直さをMは持っている。その率直さでMは、このとき自分の故郷の惨状へのやりきれなさを、一気に吐き出した。 「もし仮に、ガザの状況が良くなるとしたって、今までガザで壊されたものが回復するには、長い時間がかかる。それに、そんな「もし」の世界に人生を預けたくない。そんなところで、残りの人生を過ごしたくない。 そんなところで子供を育てたくはない。 もう、うんざりだ。 イスラエルの思う壺だって? そんなことは、知ったことではない。 俺は、自分の人生を生きたいだけだ。 中断してしまった大学での勉強を続けたいし、子供にもいい教育を受けさせたい。 何より安全に暮らしたい。それが悪いことか? もちろん、むこうで落ちついたら、妻と子供を呼び寄せるつもりだ。」 どうして、自分の故郷はこんななんだ。俺はここで何をすればいいんだ。ずっと、漠然と「何かを待っていた」Mには今、カイロからウクライナに飛ぶための飛行機代を貯める、というささやかな目標ができた。そして、その目標が達成されたときが、彼が生まれ故郷のガザとおさらばするとき、ということになる。
by lusin
| 2005-10-08 22:48
| パレスチナ/イスラエル
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