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2005年 05月 27日
その日は、早朝に激しい銃撃がイスラエル軍の監視塔からありましたが、それ以外は、いたって普通の日でした。
銃撃の最中は、「今日は学校を休んで家にいなさい」、とイマンに言いましたが、しばらくすると銃撃は止んだので、通学を許しました。 銃撃のために学校を休ませることは、月に2、3回ありました。 その日も、もしあのまま銃撃が続いていたのなら、やはり休ませていたのですが。 パレスチナの他の子供たちと同じように、ということですが、イマンは休みの日が大好きでした。しかしそれと同じように、学校に行くのも大好きでした。 その日も、いつものように、彼女は家を出る前に兄の部屋をノックし、ドアを開け、「おはよう、お兄ちゃん起きて。お金をちょうだい。」と、兄を起こしました。 兄にとって、イマンは毎朝の目覚まし時計がわりでした。彼女は、毎日3NISほどの小遣いを、兄からもらっていました。そのお金で、自分と妹のためのお菓子を学校帰りにいつも買っていました。 イマンは姉と妹と一緒に、階段をおしゃべりしながら降りていきました。 そして、その朝、彼女は学校にでかけて行きました。 イマンは、よく笑う、とても愉快な子でした。 家を明るくする子でした。 モノマネが得意で、いつもテレビで見る俳優や、外で見かけたおかしな動きをする人のマネをしては、家族を笑わせていました。イマンは、この家の活力を象徴していました。そして、親の言いつけには絶対に口答えせずに、よく言うことを聞いていました。 私たちが妹に何かを言いつけると、彼女は「イマンにさせて」と押し付けましたが、イマンはそれを嫌がらずに、いつも引き受けていました。 他のパレスチナの子どもと同じように、「占領」という言葉は、イマンにとっても日常の言葉でした。しかし、夜に銃撃があると、やはりとても怖がっていました。 妹と共に、眠れずにずっと起きていることもありました。 しかし、イスラエル軍に対する怒りの感情は、あまり感じてはいなかったようです。それが、当たり前の日常でしたから。 彼女がまだ小二の時にインティファーダが始まったので、彼女はこれが自然な状態だと思っていました。 ここは危険な場所ですが、他に移り住むなどということは、考えませんでした。 ここに住むのが、ここで生まれた彼女にとって自然なことでした。 イマンにとって、外の世界のことは、テレビを通して知るだけでした。あまり悲惨なできごと、悲しいできごとを伝えるニュースは、私はイマンには見せませんでした。 テレビを通して見る外の世界・・銃撃や、侵攻のない世界は、彼女にとってはあまりに遠い外の世界でしたが、それに憧れる気持ちを、あの頃のイマンは、少しずつ、もち始めているようでした。 しかし13歳の少女として、彼女の夢は、まだいたってシンプルなものでした。 「お父さんのように、学校の先生になりたい」とよく言っていました。 それ以上のことはまだ、考えられませんでした。 彼女の世界は、これから、少しずつ、広がっていくはずでした。 娘には、私より良い人生を送ってほしいと思っていました。自分が子供時代に得られなかったものを、子供たちには味わってほしいと、いつも願っていました。 しかし、彼女の運命はそれを許しませんでした。 私たち家族は、人生の中で本当に大切なものをなくしてしまいました。 もちろん、彼女のことを忘れることなど出来ません。まだ家の中にイマンがいるように感じています。今も、子供に何か頼もうとして、イマンの名前を呼んでしまいます。 ※ ※ ※ ※ イマン・ハムスは、2004年10月5日、ガザ地区のラファハで、通学途中、イスラエル兵によって放たれた銃弾で亡くなった。彼女の体には、15発の弾丸が撃ち込まれていた
by lusin
| 2005-05-27 01:58
| パレスチナ/イスラエル
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