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2009年 08月 18日
前回の続きです。
さて、奇しくも出くわしたハマス映画の監督は、 「下町のおっさん」 風であった。 実際に住まいはガザの下町とのこと。 かつてドイツで映画を学んだと聞いていたので、 もっとインテリ風の人かと思っていたのだが。 おっさん、もといマジッド・ジュンディヤ監督は、 気さくに立ち話でいろいろ話してくれた。 映画の製作過程や大変だったことなどを聞かせてもらった後、 せっかくの機会に率直にたずねてみた。 「この映画はパレスチナのネガティブなイメージを広めることになりませんか?」 監督は若干語気を強めて、こう言った。 「私たちは、私たちを殺す者を殺すのです。 イマッド・アケルが言ったように、 『イスラエル人を殺すことは、神を讃え神に近づくこと』 です。 ユダヤ人たちは、強者の側にいます。 だから世界は彼らの側につくのです。 パレスチナ人は弱者とみなされています。 私たちは今、常に『犠牲者』であったパレスチナのイメージに、 抵抗しようとしています」。 「下町のおっさん風映画監督の顔」 は、「ハマスの顔」 になっていった。 その後もハマス・テイストの演説が続いたので、 話題を変えて、カンヌ進出について聞いてみた。 一転、監督は顔をほころばせ、今後の野望を語ってくれた。 「世界中の映画祭で上映したいと思っています。 イタリア、ベルリン、アメリカでも上映したいです。 我々パレスチナ人がここにいる、ということを、 我々は弱者ではない、ということを伝えるために。 もし日本にも映画祭があれば、それにも参加したいです」。 日本の映画祭、ガザ発の映画、と言えば、 山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映された、 アブドゥッサラーム・シャハダ監督の「レインボー」がある。 マジッド監督は彼のことはよく知っていると言う。 「彼のパレスチナ問題を取り上げた作品には感謝している」 とのことだが、「レインボー」について聞いてみた。 「あの映画の中のパレスチナ人のイメージは、まさに犠牲者ですよね。 あなたは、そのイメージに共感しますか?」 ジュンディヤ監督は、ちょっと言いにくそうにしつつも、 その後、きっぱりとこう言った。 「私は個人的には、パレスチナ人を犠牲者として見ることは好みません。 私は、パレスチナ人を強者、戦士、英雄として見たいと思っています。 もし我々が犠牲者であり続けることを選ぶなら、誰も我々を尊敬しないでしょう。 私はパレスチナが強力な軍事力を、核兵器すら持ってほしいと思っています」。 強者になること、軍事力こそが、パレスチナを救う・・・。 しかし、監督は最後にこうも言った。 「もし我々が強者であれば、誰も私たちの元にやって来て、 施しをし、学校を建てる必要などなくなるのです。 日本人は、外国から金を恵んでもらったり、 国連に学校を建ててもらいたいと思いますか? 私たちは、他の国々から施しなど受けずに暮らしたいのです」。 トンデモ映画に分類されかねない作品だし、 完全なハマスのプロパガンダ映画なのだが、 それを監督した一人のパレスチナ人のやむにやまれぬ思いは、 彼の言葉と表情から、痛いほど伝わってきた。 いつまでも同胞を殺され続け、土地を奪われ続け、 犠牲者であり続けること、それを世界から無視され続けるということは、 一体どういう経験なんだろうか。 そして、その黙認の埋め合わせをするかのような、 外国からの施しに頼って生きなくてはならないことは、 どれほど悲しいことなんだろうか。 そのような中で、「より強くなる」 ことを求めるのは、ごく自然なことだろう。 たとえ映画の中でだとしても、仮にそれが「間違った強さ」だったとしても、 強大な軍事力をパレスチナ人が求めることを、一体誰が非難できるだろうか。 でも。 パレスチナが犠牲者の役割から自ら踏み出した先に求めるのが、 監督の言うような「強さ」だとしたら、やっぱりまるで同意できないし、 現実的に考えて、それがパレスチナのためになるとも決して思えない。 それは、この10年のパレスチナの経験を振り返るだけでも明らかだろう。 そして、それがパレスチナのためになると思っているところに、 ハマスやその他の組織の、それらを支えるパレスチナ人自身の、 あるいはその影響力のもとで生きざるを得ない人々の、 大きな困難があると僕は感じている。 さらに言えば、犠牲者のイメージ以上に世界の人々がすでに強く持っているのは、 その対極とも言える、テロリストとしてのパレスチナ人のイメージだ・・・残念なことに。 映画の中でだけ強くなるという自己満足のために、 そのテロリストのイメージを自ら宣伝してどうしようというんだろうか。 まったくオウンゴールもいいところだ。 いやというほどパレスチナの人々と話してきたことだけども、 特にガザでは、「武力以外の解決策」を積極的に模索していこう、 話し合っていこうという土壌が育ってこなかった。 これは、以前も書いたが、内戦を経て、そしてハマス支配の下では、 当時よりもさらにその状況は悪くなっている。 一体何が本当にパレスチナのためになって、 一体何が自分たちの利益を阻んでいるのか、 大っぴらに自分たちの社会のことを話してみよう・・・ という当たり前のことをするのが、ここではなんと難しいことか。 もちろん、日々を忍耐強く堪え、生き抜いているということ自体が、 ここでは最大の抵抗なのだとは思うけれども、 その「耐え忍ぶ人々」「犠牲者」から、社会として自ら大きく踏み出す様を、 僕は見てみたいと思っている。 「そんな牧歌的なことは、封鎖を解いてから」 なんて言葉も聞くが、 封鎖や占領を終わらせるためにこそ、それが必要なんじゃないだろうか。 もっとも、監督の求めるような方向にさらに踏み出す選択肢も、 パレスチナの人々は当然持っているのだが。 今回は立ち話でじっくりとは話せなかったので、 今度はガザの下町にある監督の家で、ゆっくりと話してみたいと思っている。
by lusin
| 2009-08-18 01:07
| パレスチナ/イスラエル
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